2005年11月28日

びびりの犬とのくらし方 その7

犬の行動学 エーベルハルト・トルムラーより


社会性を身に付ける時期(八〜一二週)

この時期、自分たちの避難場所でもある巣との結びつきはまだ相当緊密ですが、子犬たちは許されたより広範囲の遊び場にも安心するようになってきます。しかし、何かの危険かせまるとまっしぐらに巣や両親の元に駆け込むのです。
さて、巣についで、子犬に必要な遊び場は、彼らの運動能力、好奇心が発達するにつれて広がってきます。両親は餌を運び続け、時には生きたままの小さな獲物を持ってきてやり、子犬たちは獲物を捕まえ、殺す経験を積むのです。彼らは常に最初に餌を食べることが許され、成犬は彼らが満腹になってから手をつけます。子犬たちは、なんとかよい餌を取ろうとして懸命に争い、毛を逆立て、稔り、相手に食いついたりする防御行動が大変進歩してきます。おなじような行為は、刷り込みの段階でも見られるので
すが、この時期の最初の数週間において、餌を守るために最高度に発揮されます。

この時期に飼育者は、犬に対する愛情からかえって根本的な過ちを犯してしまうことがままあります。彼らは、昔の犬学の大先生、エミール・ハウクの助言に従い、子犬たちが一匹ずつ食べられるような餌箱を用いるのです。こうすれば、すべての子犬は自分の食物にありつけるのですから、これは善意から出た考えといえるでしょう。でも、そもそも餌の量が充分あれば、一匹ずつの餌箱がなくても食いはぐれることなどないのです!
充分食べた犬は次の犬に場所を譲るものです。食物に関する闘いは社会的意味を持ち、それが子犬の場合は、どうやって自分の権利を相手に認めさせるかの問題であり、この過程を通して、白分の持つ攻撃性の大部分を発散してしまうのです。

いずれにせよ、私個人が観察したところによれば、餌を巡る闘いは、社会性を身に付ける時期においては危険なものではありませんし(実際、何事も起こりません)、その結果、少し経てば、頭をくっつけ合って、同じ獲物を平和に食べるようになるのです。つまり、充分な獲物を一緒に倒せば、このような闘いは無意味であることが判ってくるからなのです。

馬を使った狩猟の後で、三○頭ばかりのフォックス・テリアが、褒美として獲物の内臓を与えられた時の光景を見れば、私の言いたいことがよく理解していただけるに違いありません。犬たちは、足を動かしながら身体をよせあって、各々が獲物のかけらに食らいつき、捻りもしなければ、争いもなく、ただ、満足して食べる音しか聞こえてこないものなのです。
若い犬たちの発育の終極的な目的は、仲間の犬とうまくやってゆくことであり、社会的生活は孤独な生活より進化したものなのです。単独で狩猟生活を営む動物は、食物に関する競争相手の存在を許すことができません。一方、ある集団に参加すれば、その動物はより確実に食物にありつけるのです。

そして、集団生活の場合、より容易に食物が確保されるかわりに、個体が食物に関して反社会的行動をとることは許されなくなります。一九世紀後半のドイツの偉大なる自然研究者エルンスト・ヘッケルは、若い動物に、その発育の過程において、原始的な性格が多く現れることを観察しています。ある動物の進化というものは、進化の前段階において有益であったものをある日完全に否定しておこなわれるものではありません。不要となった性質も、以降の進化の過程において保持される場合がしばしばあるのです。
ヘッケルは「動物の個体の発生・成長の過程は、その動物が進化してきたありさまを手短にくり返す」と述べています。犬の生涯の最初の数カ月において、食物を巡る争いが生ずる原因というのは、原始的な「前犬属」、すなわち単独で狩猟をおこなった時代の痕跡であろうと私は考えるのです。もし、子犬たちが幼い時、つまりその争いが深刻な結果をもたらさない時期に、攻撃性を充分発散させられるなら、成長してからは皆と一緒になって、平和に餌を食べることができるようになるでしょう。最悪の場合
でも、お互いに策略は用いても、相手を殺してしまうほど噛むようなことはないはずです。
ともかくも、私の犬舎では、何世代もの犬が同居し、犬の数が過剰であったにもかかわらず、私はこのような結論に達したのでした。五〇平方メートル程度の広さの犬舎で一四、五匹の犬が平和に食事をする光景を見るにつれ、それが、彼らが幼少期に、犬という「種」の命ずるところに従って、食事を巡り、時代遅れでしかも非社会的な争いを充分おこなった結果であると考えるのです。もし、この考えが正しくないとすれば、子犬の時は兄弟と餌の奪い合いをして恐ろしげに唸っていたある雄犬が、なぜ父親になると、先ず授乳中の母犬に食事を取らせ、ついで子犬たちが満腹するまではほかの犬たちを食物に近づかせない、といった良心的態度をとることができるのか説明がつかないことになります。
だからこそ、仲間と.緒に食事をしなかった子犬は一生食物に意地汚く、成犬になってもためらい無しに自分の子人の食物を奪ったりするのです。
進化の過程で完全に消滅せず、動物の幼少期に発現するある原始的な行動は、幼いうちに充分発散されなければいけないのです。そうしないと、後になって面倒を起こす要因になってしまうでしょう。
獲物に対する態度についても同じことがいえます。ある時は遊びとして、ある時は真剣な形で現れる獲物の捕獲行動は、この時代から徐々に観察されるのですが、それについてはここでは述べず、次章の主題としましょう。
この章では、八〜一二週目に見られる、「社会性を身に付ける」行動形態について説明します。
まず、この時期になると、戦闘遊戯の回数はより頻繁になり、その行為は断片的な争いではなく、種々の行動形態が入り交じって複雑になってきます。この時期では、立場が入れ代わる場合はありますが、必ず、勝者と敗者に立場がはっきり分かれ、本能的なものに加えて経験から得た、攻撃を抑制する行為が現れてくるのです。激しい争いの中で、一匹が相手の身体の敏感な部分を強く噛み過ぎたとします。すると、噛まれた犬は防御反応を見せ、悲鳴を上げ、相手に度が過ぎたことを知らせるのです。噛んだ犬はこれにより自分の力の程度が判り、それを制御する方法を学ぶのです。この段階で、子犬に対し、我々の手は鉄でできているのではない、ということを充分教え込めば、将来、犬は手加減して遊ぶようになります。これを学んだ犬は、我々が生まれたばかりの子犬ででもあるかのように、手や足を優しく噛むようになるのです。
このようにして、戦闘遊戯を通じ、社会的絆を弱めないように、同属に対する危害を避けるような態度を身に付けてゆくのです。次の成長段階、「階級を意識する時期」になると、この社会的な意味を持つ抑制心には特別の役割が与えられることになります。

これ以外に、父犬によっておこなわれる集団遊戯もよく見られます。これは逃亡する獲物を追う狩猟ゲームで、父犬が獲物の役割を演じてやります。彼は自分を追いかけるように子犬を仕向け、段々と策略を巡らし、追跡をむずかしくしてゆきます。しかし、最後には大体捕まって、降参してやるのです。
この時期までの子犬たちはほとんど完全な自由を謳歌でき、何でも許されましたが、この段階になると父犬は徐々に厳しい規律を押しつけてきます。子犬たちの体力、勇気を試す行為は、同時に秩序を打ち立てる目的を持ってくるのです。遊戯を始め、終わらせるのを決めるのは父犬であり、大変精力的な態度で自分の意思を貫きます。
彼は「触れてはいけない物」を決め、常時それを見張っています。たとえば、古い骨をタブーとして指定するのです。最初、子犬たちは言いつけを無視しようとしますが、途端に物凄い勢いで罰せられます父犬は子犬の首か背中の皮をくわえ、強く振るのです「罰せられた子犬は叫び、放されると同時に背中を下にして引っくり返り、服従の態度を取りますが、ちょっと時間か経ち、父犬がほかのことをやっていると判ると、その子犬はまだ規則が生きているのか調べるため、非常に慎重な態度で、再度タブーとされている物に近寄ります。
しかし、今回も罰を受けてしまうのです。同じことが何度もくり返され、それはあたかも、父親が常に一貫性を保っているかを子犬が調べようとしているかの印象を与えます。
子犬を飼っている人は、自分が常に試されていることを認識すべきでしょう。しかし、子犬はこのやり方でなされる罰をきちんと理解し、それが父親の権利であることを認め、すぐに深い親愛の情を示します。罰せられた子犬は父犬に友好的な態度で近寄り、鼻面で押したり、口を嘗めたり、前足を出したりして愛情を表すのです。
まるで、「お父ちゃん好きなようにしていいよ。頼りにしているんだから」と言っているかのように見えます。なぜなら、父親の権威への絶対的服従こそが「種」の存続を保証するものだからです。
もっとも、これは犬に限った話ではないのでしょうが!

このように、社会的行動、特に両親との結びつきは遊びを通じ現れるのです。このことは我々にとっても大きな意味を持つに違いありません。というのは、まさにこの時期にこそ、犬と人間の絆を構築しなければならないからなのです(欧米ではこういった理由から、一般に七週目に子犬を入手するのが最適といわれています)。もし、飼い主がそれをしないと、子犬は人間よりも同属の犬に対し強い絆を持ってしまいます。
遊んでやる時は、子犬にとって遊戯が、対等の立場に立ったお互いの喜びである、と受け取れるようにしてやらなければなりません。犬が我々の望む行動を取った時に与えられる褒美、あるいは愛撫は、彼がタブーを犯した時に受ける罰(首の皮をつまんで振り回す)と同じく子犬の心に焼きつけられます。通常はこれらを何度かくり返す必要が生じてきます、というのは、子犬は自分の教育者である飼い主の一貫性を常時試そうとするからです。
重要な点は、我々ができる限り子犬と遊んでやることなのです。人との遊戯が楽しければ楽しいほど、学習は楽しみと受け取られ、犬は学ぶことに喜びを感じるようになります。この段階では、常時学習の喜びが存在しなければいけないのです。
人間との接触を通じ、子犬の自信を深めさせてやる必要もあります。したがって、規律を守らせる手段は犬にとって容認できる範囲であるべきなのです。子犬が必要な罰を受けても、恐れて飼主を避けたりせずすぐに愛情を示してくるありさまが確認される程度の罰でなければならないのです。我々も次の原則を守らなければいけません。罰は、明白に犬か掟を破った場合に限る、と。犬が犯した罪と罰を結びつけられるように、罰が、罪を犯したと同時にあたえられるべきことは当然です。すなわち、父犬の真似をして、この時期においては、常に子犬を見張るべきですし、もしそれができないのなら、子犬がタブーを犯せない場所に入れておかなければなりません。もちろん、子犬を長時間一匹にしておいてはいけません人か何かの行為をしでかした後で叱るのは、もう少し成長して、彼が過去の行為と我々の不満を結びつけることができるようになるまで待つべきで、しかも非常に慎重な態度が必要なのです。たとえば、犬の鼻先にひきちぎられた本を持ってゆき、犬が後悔の表情を示したとすれば、それは成功しているのです。なぜなら、犬は自分の罪状を極めて明白に表現するので、犬の行動について何の予備知識がなくとも、それが判るからです。ただ、注意が必要なことは、犬をその各々の性格に応じ、強く罰するか、穏やかに罰するかの問題です。すべての子犬たちは同一ではありません。ある犬には強い罰が必要でしょうし、別の犬には優しいたしなめで充分なのです。

訳注
赤太字部については欧米において必ずしも統一された見解とは思えない、犬は壊された本に腹を立てた飼い主の表情を見て恐れ、あたかも自分が悪かったと受け取られるような服従の態度を示す、という解釈がむしろ一般的である。結局のところ、犬がどう受け止めているかは確認できないのであるから、過去の行為に対する言葉による軽い叱責は許されるとしても、強い罰は、その行為の最中にのみ限られるべきであろう。


罰についての考え方は大変広範なもので、低い、あるいは大きな声で叱ることから、強いビンタを食らわせたり、ゆすぶったりするものまであります。このいずれを取るかは飼い主が自分の犬の性格に応じて決めるべきであり、罰はこうでなければならない、といった原則はないのです。
子犬に我々の望む行為をさせようとするなら、それは褒美によってのみ実現されるのです。たとえば、ボールを持ってこなかったとしても罰してはいけません。むしろ、遊びを止めてしまうべきで、もし、ボールを初めて持ってきたらうんと褒めてやることです。
小さな子犬にとって、自分の保護者との遊びはこの上もない喜びなのです。彼らは、自分がくたびれるまで飽きずに遊び続け、最後にのびてしまうのは、大体、人間のほうです。

さて、この年齢の子犬にとって、遊びの中止は規律に従うことなのです。ですから、犬が何かよくない行為を犯したなら、これを利用できます。そういう機会は容易に見つけられるでしょう。また、遊戯を止める時、ボールをうんと遠くに投げてやることもできます。
犬が一生懸命探している問、我々は平穏に過ごせるというわけです。しかし、たまたまであるにせよ、犬が飼い主の手元にボールを持ってくる場合もありますが、この時を逃してはなりません。我々が喜んだ様子を示し、遊びを続けてやれば、犬は自分の行為と遊びの続行を関連づけるでしょう(もっとも、六週目の子犬がこれをやらなかったとしてもがっかりしてはいけません)。
このようなやり方をすれば、我々がしつけとか訓練と呼ぶ、犬と飼い主の共同行為は犬にとって喜びと感じられるようになるのです。犬がある行為をした時、飼い上が喜びを表明し、同時に、それが犬にとって幸せな出来事と結びつけられれば、時が経ち、犬が充分な成長を遂げても、学習は喜びになりうるのです。人間が教育者として、あるいは社会生活のパートナーとして果たすべき役割はここにあり、これによってのみ、意義のある、そして安定的な犬と人間の群れというものが作り出されるのでしょう。
よく犬の性格が弱いといわれる場合がありますが、これはしばしば、この「社会性を身に付ける時期」におけるしつけの失敗に起因することが多いのです。犬と充分遊んでやらず、ともかく「鍛える」ことに主眼を置く……。沢山の人が、犬は荒々しい檸猛な狼であると考え、自分はライオン使いであると思っているかのようです。これは二重の意味で誤っています。まず、大分以前から猛獣使いは、自分の鉄の規律を猛獣に押しつけるのではなく、感受性の豊かな動物の友達となるようにしていますし、巨大な猫たちからは、彼らが働く喜びを持たぬ限りよい結果を引き出せないことをよく理解しているのです。第二に、荒々しい檸猛な狼などは存在せず、彼らは愛らしく、人に危害を加えたりはしないものなのです。もちろん、彼らは自然の命ずるところに従って、草食動物の欠陥ある個体を間引
き、過剰繁殖を防ぐ行動をとります。少なくとも犬においては、自分が生き延びるために、人間にとっても模範となるような社会生活を発達させており、喜んで我々と共同生活を共にするのです。子犬たちが杜会性を身に付ける衝動を持つ時期に、この事実をよく認識せず、生来の衝動を助けてやらない人間は、犬に対して罪悪を犯しているとすらいえるでしょう。
この時期に誤った取扱いをして、不信の念を植えつけると、事実上、一生取り返しがつかないことになります。癒すことのできない闘争の衝動は、一生を通じ、犬の精神に深く刻みこまれてしまうのです。間違ったやり方で幼年時代を送った犬の将来がどうなるかははっきりしています。多くの場合は獣医の注射が目茶苦茶にされた犬の一生に終末をもたらすのです。理性を持った人が、並々ならぬ苦労をもって犬の面倒を見てやり、ついにその犬が自分の最終的な家庭を見つけ出す場合は極めて稀であるというべきでしょう。
犬とは、本能がすべての鍵を握る動物ではない、と何度述べても充分過ぎることはありません、犬を理解するには、生まれながらの行動形態を学ぶだけでは不充分なのです。さらに重要なのは、生来備わった学習能力のある一定時期における可能性を分析し、子犬と両親の関係を観察し、異なった時期における父犬ー子犬の関係を学び、子犬の個性が何によって、またどういう具合に形成されるのかをよく認識する態度です。
犬とは、まぎれもなく「学習する動物」であり、その社会性の発達を研究し、それから得られたものに注意を払わなければなりません。「社会性を身に付ける時期」における、犬と人間の係わりの広さと程度こそが、犬の一生を通じ、その性格に決定的な刷り込みをなし遂げるのです。

(訳注)
犬を薬殺せざるをえない最大の原因は噛咬問題である。日本においては残念ながら、未だに、「噛む犬を殴る」ことを勧める訓練士も多いし、著述にも出会う、これこそが、わが国の飼い犬文化の後進性を如実に示しているのである。臆病に生まれ、人間に対し充分な社会化がなされなかった犬が、人手を恐れ、噛むことは容易に想像できる。その犬を殴ればどうなるであろう?犬の人間を恐れる傾向はますます強まり、更に噛む犬になることは明白である。このような犬に対しては、一切の体罰をさけ、忍耐強く、「人間性善説」を植えつける以外に解決策がないのである。


ニックネーム ポセイドン at 21:43| Comment(1) | TrackBack(5) | 私の思うこと・・・ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする